タブ 1
Simulacra in the Social Interstice:AI時代の存在論的探求としての草野絵美
序論——存在しない記憶の懐かしさと不気味さ
草野絵美の作品において、観客がふとした瞬間に出会うのは「存在しない記憶」である。完全な虚構であると理解しながらも、それらは深層意識に忍び込み、抗いがたい既視感を呼び覚ます。作家の幼少期の私的な記録や、戦後日本のありふれた日常の断片が、AIの介入を受けて未来的テクノロジーと交錯する。その交点において、奇妙な懐かしさと違和感が渦を巻き、私たちのアイデンティティの基盤そのものを揺るがし始める。
この系譜は、20世紀後半の芸術実践に遡ることができる。1970年代、シンディ・シャーマンは写真を通じて、メディアに流通する女性像を演じ、アイデンティティの虚構性を暴き出した [Krauss, 1985]。写真は「主体の真の姿」を捉えるものではなく、むしろ反復とずれによって、主体が常に社会的な演技・操作から生成されることを可視化する装置だった。草野の実践もこの系譜に連なるが、彼女の眼差しが射抜くのは「社会的な役柄」ではなく「生成された記憶」である。そこに可視化されるのは、主体の虚構性というより、主体を支える基盤としての「記憶」そのものの脆弱性である。
この問題意識には、戦後日本に固有の文化的厚みが宿る。映画監督の押井守や漫画家の士郎正宗らによって展開され、世界的影響を与えたSF映画『攻殻機動隊』は「脳も身体も機械化されたとき、なお自我は存続しうるのか」という逆説を提示した。草野はこの問いを現代的に継承しつつ、AIが生成する「記憶」の次元へと転位させる。もし記憶そのものがAIによって生成されるならば、私たちはなお「過去」や「歴史」を生きる存在と呼べるのだろうか。問いは美学的実験を超え、政治的・認識論的・倫理的次元において根源的含意を帯びる。
ここで問われるのは、記憶と主体の関係性そのものの再定義である。西洋近代において記憶は、個人の同一性を保証する基盤とされた。しかしAIが生み出す「存在しない過去や歴史」は、その基盤を足下から掘り崩す。「私」はもはや記憶の所有者ではなく、生成され続ける擬似記憶の回路に巻き込まれる存在として立ち現れる。草野の作品は、この転換を可視化する批評的装置として機能する。
草野絵美の実践は、AIが全面化する21世紀において、記憶と主体をめぐる新しい認識論的・倫理的問題を切り開いている。本論では、展示の設計から社会的背景、文化的基盤に至るまで、段階的にその意義を明らかにしていく。第1章ではアジアの儀礼的空間や宗教的図像から作品の独自性を分析し、第2章ではフェミニズムの視点からテクノロジーとジェンダーの問題を読み解く。第3章では香港の哲学者ユク・ホイの理論を援用して、西洋的記憶モデルへのオルタナティブとして草野の実践を位置づける。第4章では日本的アニメ文化やポストヒューマン論との連関を探り、結論として記憶と主体の倫理的・政治的含意を総括することで、草野の作品を現代美術史における批評的実践として評価する。
Ⅰ. 複製される顔、分裂する身体——アジア的公共空間と宗教芸術の系譜
草野絵美の《EGO In the Shell》において、ブラウン管やスクリーンに立ち上がるのは、作家の私的写真群をAIが再構築した微細な断片である。そこに繰り返し召喚されるのは、アジアに固有の儀礼的・日常的公共空間——結婚式場の定型化された所作、葬儀の静謐と行列、通勤電車の整列と無言の秩序——である。これらは戦後日本の生活世界に深く根差した、規律化された身体作法の堆積であり、同時に文化的基盤そのものをつくり上げてきた。
草野がこの「ヴァナキュラーな記憶」を反復して呼び戻すのは偶然ではない。生成AIの多くは欧米中心のデータセットに傾斜し、標準化されたグローバルな光景を普遍的なものとして再演することで、地域的な手触りや具体的な生活感覚を捨象してしまう。草野は、まさにその忘却の縁に批評の起点を見いだす。欧米型AIが取りこぼす反近代的で土着的な残響を、あえて生成にかけ直し、観客へと投げ返すのである。
ここで浮かび上がるのは、日本/アジアという文化的基盤が生成する、欧米の個人主義とは相異なる主体の姿である。日本では規律化された所作の反復を通じて、個は「空気を読む」感受性と集団への順応の美学のうちに組み込まれる。私という主体は、孤立した実体としてではなく、他者や環境との相互依存のなかで、その都度立ち現れる生成的な関係の結節点として理解される——これは仏教の「縁起」の思想と重なり、主体を「一貫性を保持するもの」ではなく「即時的に生成されるもの」として捉え直す視座を開く。
この「即時生成される主体」のイメージは、アジアの宗教的身体表象に通底する。たとえば、14世紀のチベット仏教学匠ツォンカパの系譜に見られる身体観では、身体は物理的に固定された実体というより環境に霧のように微満する気のようなものとして考えた。宝誌和尚立像(8世紀/京都国立博物館蔵)に特徴的な、ひとつの顔が左右に割れて別の顔が下から現れる彫刻の形式は、自己の統一的輪郭を越えて別の自己が分裂・複製・重層化していくアジア的な精神の運動を示す。伝統的な仏教彫刻の阿修羅像や千手観音像における多顔多手の身体観もまた、内的葛藤や複数の視線の同居を可視化し、主体の一元性をほどき、ひとりの存在に潜在する多重性を浮上させてきた。
草野の本シリーズに反復して現れる「複製された顔」や「分裂する身体」は、単なる未来派的サイボーグ像ではなく、このアジア的身体論の現代的変奏である。(この図像学の系譜は、韓国のイ・ブルや香港のルー・ヤンのサイボーグ表象とも共有するものである。)すなわち、《EGO In the Shell》は、アジアの伝統的な宗教的身体観を受け継ぎつつ、それを『攻殻機動隊』が描いた「ネットワーク的主体」のビジョンへと拡張する。複製顔と分裂身体の反復は、アジア的文化が古来描いてきた「多面性」「分裂性」「関係性としての身体」を今日の技術環境において再演し、AIとバイオテクノロジーの果てに立ち上がるであろう機械と主体の境界が融けた未来の自己像を予告している。
Ⅱ. アジアのテクノフェミニズム——装飾としての顔・皮膚・サイボーグ
草野絵美の作品を、AIやサイボーグ的身体という文脈において読むことは、テクノロジーとジェンダーの関係をアジアの視点から再考することと同義である。本節では、まず1980年代以降に展開されたサイバーフェミニズムの系譜を参照し、それをもとにアジアにおけるその発展として本作を論じる。とりわけ、アメリカの哲学者ダナ・ハラウェイによる「サイボーグ宣言」(1985)は、フェミニズムが「自然/文化」「身体/機械」「男/女」といった二項対立を超克するための思考装置として、サイボーグという比喩を導入した点で画期的であった。ハラウェイにとって、サイボーグとは、母を持たず、起源神話を拒む存在である。それは「生物学的に与えられた身体」ではなく、「社会的・技術的ネットワークの中で生成される身体」なのだ。この視点から見れば、草野がAIを通じて自己の顔や身体を別様に何度も生成し、再演する行為は、ハラウェイのいう「起源なき身体」の現代的再解釈といえる。AIがつくり出す彼女の顔は、生物学的身体ではなく、社会的・技術的コードによって書き換えられる「もうひとつの皮膚」であり、それは「私とは誰か」を問う存在論的な境界線を曖昧にしている。それは、生涯剥ぎ取れないアイデンティティの証明ではなく、生成されるたびに変化し他者との界面を調整する「共生の皮膚」であり、そこに新しい政治的能動性が宿る。
この「コードとしての身体」という視点は、イギリスの思想家サディ・プラント(Sadie Plant)による「Zeros + Ones: Digital Women and the New Technoculture 」(1997)においてさらに深化した。プラントは、コンピュータの起源をジャカード織機にまで遡らせ、女性の織り手たちがもたらした「織物=コード」という隠れた系譜を再評価した。彼女にとって、女性性とは「ネットワーク」「流動」「織り」の形でテクノロジーの基層に潜み続けてきたものであり、機織りとは、情報をコード化する技術的思考の原点だったと転倒させた。「織り」「刺繍」「縫製」「装飾」といったかつて女性の労働とされたものこそが情報技術の原型=コードの生成装置であり、コンピュータ・コードはもともと「女性的」であった。草野のセルフポートレートにおいて、複製される顔や光沢を放つ皮膚の質感、義肢の意匠やシルエットのパターンは、まさに「織物としての身体コード」の視覚化である。それは男性的なテクノロジーの言説の内部に「装飾(ornament)=女性的なコード」を再導入する行為として読むことができる。つまり、草野にとってAIとは、抑圧された女性的コードを奪還するための「織機」なのである。
こうしたサイバーフェミニズムの文脈において、パラグアイ系アメリカ人の芸術家フェイス・ワイルディング(Faith Wilding)は「Where is the Feminism in Cyberfeminism?」(2006)で、テクノロジーの過剰な楽観主義を批判し、「フェミニズムが求めるのは支配装置としてのテクノロジーの再プログラミング」と述べた。この視点から見れば、草野の実践は、AIを破壊するのではなく、AIの内部に個人的な「ノイズ」やアジアの非合理な「霊性」を導入することで、テクノロジーを再プログラムしている。それはオーストラリアの芸術家集団VNSマトリクス(VNS Matrix)が「Cyberfeminist Manifesto for the 21st Century」(1991)で掲げた、「私たちはサイバー空間のウイルスであり、機械に感染する女たちである」という戦略のアジア的変異種でもある。
黄色人種のジェンダーの視点から、草野のテクノフェミニズムにさらに一歩踏み込むならば、プリンストン大学教授アン・アンリン・チェンによる『装飾主義』(2019)の視点が必要となる。チェンがいうように、アジア女性の身体は欧米の近現代社会において「装飾」として存在を許容されてきた。すなわち、内面を欠いた外皮としての「見られる存在」として。だがチェンは、その「装飾性」を単なる抑圧ではなく、生存するための皮膚(skin of survival)として読み替えた。黄色人種の女性が着飾って見られることは、権力の眼差しを主体的に操作・制御して生き延びるための術であった。草野のAIセルフポートレートは、まさにこの「装飾の再武装化(re-armoring of ornament)」を実践する。彼女の顔はもはや近代的な美の規範に単純に従属しない。老い・義肢・分裂・分身といったモチーフは、「完璧な表面」への信仰を破壊し、テクノロジーによって機能拡張した第三の皮膚(third skin)を形成する。それぞれが「見られる身体」の制度を反転させ、見られることでしか生き延びられなかった存在が、見る側を撹乱する存在へと変容する。
草野の複製された顔や身体は、もはや「ひとつの私」ではない。それは、AIとともに生成され、分裂し、他者のデータと混じり合う「私たち」の相にある。また自らの顔や過去の私的な記憶、アジア的な価値観をAIに積極的に学習させることは、支配的な技術への従属ではなく、その構造そのものを感染させ、撹乱する批評的擬態(critical mimicry)である。このひとつでありながら多面的でもある身体は、アジアの伝統に偏在する半透明/曖昧性/不可視性の美学でありながら、哲学者ジュディス・バトラーのいう「反復の政治(politics of iteration)」をアルゴリズム時代に翻訳したものでもある。それは内面や深さに代わる、鏡のように反射する「奥行きをもたない深さ(depthless depth)」の美学であり、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ・フェミニズム」が提示した「接続の倫理(ethics of connection)」を超えて、「表面の倫理(ethics of surface)」——皮膚・装飾・複製というアジア的境界(interface)へと展開する。草野絵美において、顔や身体はもはや内面の表象ではなく、社会的・技術的ネットワークの権力を眼差し返すための鏡のような表面——テクノフェミニズムの政治的装飾として機能している。しかし、それはまた現実の日本社会がいまだ苛烈な男女格差の構造を温存していることを前提とした「見られることによって生き延びる」存在の最も静かで強靭な抵抗のかたちでもある。
Ⅲ. コスモテクニクスとして——東洋の技術哲学から読む
香港の思想家ユク・ホイ(Yuk Hui)は『The Question Concerning Technology in China』(2016)において、技術を単なる中立的な道具とみなす西洋近代の普遍主義を批判し、技術を「宇宙技芸的思考(cosmotechnics)」として捉え直す必要を説いた。すなわち、技術とは世界のどこでも同一のかたちを取る普遍的装置ではなく、文化的宇宙観と倫理観に根ざし、それぞれ異なる世界像を生成しうる営みである[Hui, 2016]。
この視座は、今日のAIやバイオテクノロジーがもたらす均質な未来像に亀裂を入れ、文化的文脈に即した多元的な「コスモテクニクス」の可能性を拓く鍵となる。草野絵美の実践は、まさにこの多元的技術観を芸術的に体現するものである。彼女にとってAIは、記憶をデータとして保存するための道具ではなく、関係そのものを生成し、変容させるための媒介体である。AIは記録を固定する媒体ではなく、常に生成しつづける関係性のリズムを可視化する装置として機能するのだ。言い換えれば、草野の試みとは「AIを普遍的な技術として輸入すること」ではなく、「AIをアジア的宇宙観の文脈に差し戻すこと」である。
この観点から注目すべきは、彼女の作品に通底する、テクノロジーの果てに到達する「無我」や「多重の自己」という主題である。ユクホイの議論を借りれば、これらは「個」が絶対的単位であるという西洋的前提を問い直す契機となる。主体とは、孤立した点ではなく、相互依存的な関係の網の目の中で生成される——草野の作品におけるAIの運動は、この生成的関係のプロセスを具体化する詩的回路として働いている。
《EGO In the Shell》が描き出すのは、記憶や身体の可塑性をめぐる新たな自己像だけではない。それは、ユクホイのいう「新しいコスモテクニクス」の芸術的実例であり、技術の普遍性を相対化し、アジアの文化的宇宙観に根ざした異なる未来像を提示する批評的実践である。草野のAIは、演算のなかに倫理を、合理的なアルゴリズムの流れにアジアの宗教に根ざした非合理な文化を呼び戻す。そこでは技術はもはや冷たい機構ではなく、宇宙と人間、記憶と身体、過去と未来を織り合わせる柔らかなジャガードの織物となる——草野のAI的実践は、まさにそのような「アジア的な関係性を宿す技術」を詩的に再構築する試みなのである。
Ⅳ. 「合成される記憶」の倫理——90年代日本SFアニメからの再読
日本の映画監督・押井守によるSF映画『攻殻機動隊』(1995)は、サイボーグ化した社会において、記憶がいかに可塑的なデータとして扱われるかを主題のひとつに据えた。草野のインスタレーションの着想源となった本映画の象徴的な挿話——通称「ゴミ収集車の男」のエピソード——では、男が架空の妻子の記憶を植え付けられ、行為の動機そのものを他者に書き換えられていたことを取り調べの中で知る。その場面によって、観客は「個人の人生」とは何か、「生きる」という選択の自由がいかに外部によって制御され得るのかという、冷ややかで深遠なテーゼに直面する。
『攻殻機動隊』の物語は「記憶=保存すべき所有物」という近代的前提を解体する。ここでは、記憶はもはや個人の安定した資産ではなく、「人形使い」と呼ばれる超AIの手によって、絶えず複製・改竄・合成される流動的な履歴へと変容する。終盤、主人公・草薙素子が「人形使い」との融合を選ぶ場面は、単なる同化ではない。そこでは相互の記憶が溶け合い、新たな集合的記憶の萌芽が始まる——「私」は、もはや記憶の所有者ではなく、記憶の合成を媒介そのものとして立ち現れる。
この倫理的転回は、草野絵美の《EGO In the Shell》の尋問のインスタレーションにも深く共鳴している。AIが記憶を生成する局面では、過去はもはや「真偽」を問う対象ではない。どのネットワークで、誰と、どのような条件で合成されたか——それこそが意味を決定する「プロトコルの問題」として立ち上がる。生成AIが扱う膨大なデータは、オリジナルを何度も複写し、他の情報と融合・改変したシミュラクラの集積である。そこでは「真実か否か」という基準は無効化され、代わって問われるのは、参照元・アルゴリズムの条件・改変の権限と責任である。草野は、この問題を可視化するために、自身のプライベートフォトをデータセットとして組み込み、AIが「本物らしさ」を模して記憶を融解させていく過程を観客の前に突き返す。
同時代の日本のSFアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)もまた、記憶と主体の在り方を根底から攪乱した。終盤、人間の身体はLCLと呼ばれる液体へと還元され、全人類がひとつの海に溶け合う総体化のヴィジョンが描かれる。ここでの記憶は、もはや個の所有物ではなく、相互に浸潤し、漂う集合的意識の海として提示される。このユートピア/ディストピア的構図は、AIが巨大な集合データから平均化された記憶像を生成する現代の情景と響き合う。個を溶かし、区別のないひとつの総体へと帰すことは孤独を癒すかもしれない。しかし同時に、それは個々をその人たらしめている差異——つまり傷や偏差——をノイズとして消し去る危険を孕む。『エヴァンゲリオン』の最終局面で主人公の碇シンジが「再個体化」を選び取る場面は、自己が他者と融合して消えてしまうことの魅力を認めつつも、あえて孤独と痛みを抱えたまま「私」として立つ決断の寓話である。
草野の作品も、この倫理的な緊張を体現する。AIが生み出す記憶は、総体化されたデータのうねりの中に溶け込み、誰のものでもない曖昧な記憶像として出現する。しかし、草野は忘却された極めて個人的な記録写真、日本的・アジア的ヴァナキュラーな儀礼や公共空間を召喚することで、均質化の潮流に抗い、再び「個」を部分的に浮上させる。彼女の「合成された個人的な記憶」は、単なる新しい図像の快楽ではない。それは、固有性を再び立ち上げる権利——つまり、誰がどのように記憶を構成し、未来へ残していくのかという制度設計の問題——を鋭く突きつけるものでもある。
ⅣーⅠ.《No Ghost Just a Shell》: 空虚の再文脈化
90年代日本SFアニメと並行して、現代美術の領域で攻殻機動隊から影響を受けてこの問題を可視化したのが、フランスのアーティスト、ピエール・ユイグとフィリップ・パレーノによる《No Ghost Just a Shell》(1999–2003)だった。彼らは、日本のアニメ会社から購入したキャラクター「Annlee」を複数のアーティストに開放し、虚構を消費するアニメ産業の構造、主体なきキャラクターの流通を可視化した。Annleeは唯一固有の物語を持たず、ただ「使われる器」として市場に存在していたが、その空虚さを逆手に取り、複数の作家が意味を付与することで、Annleeは時に現実の人間に等しい権利の一部を与えられるにまで至った。 ここで焦点化されるのは、(1)身体表象と物語の分離、(2)複数の作者のネットワークによる記憶の生成、(3)ひとつの像が複数の国や文化を横断しながら差異化していく過程である。現代のAIが学習するのもまた、多国籍的で断片化されたシミュラクラであり、生成される記憶像は参照先を欠いた曖昧な断片である点において、Annleeは、この状況を先取りしていた。
草野の作品は、この「空虚さ」を継承しつつも別様に展開している。しかし、その批評性の核心は、AIが「過剰に事実や記憶を改変し続ける」ことで生まれる主体の肥大化と同時に失われる実質性こそある。草野における「空虚さ」は、90年代以上に「現実と区別できない虚構」に囲まれた現代に普遍的な問題の写し鏡でもあるのだ。
結論——合成記憶時代の芸術
草野絵美の《EGO In the Shell》シリーズは、AI技術が「存在しない記憶」を生成する時代において、記憶・主体・歴史の意味を根底から問い直す実践である。彼女の作品は、単なる技術的な実験や未来的なヴィジョンの再演にとどまらず、文化的・哲学的基盤を組み替えつつ「合成される記憶」の倫理、その根幹にある問いに関連している。草野の作品が示すのは、AI時代において記憶や歴史の意味が「真正性」から「プロトコル性」へと移行するという根本的転換である。すなわち、記憶は、過去を忠実に保存するものではなく、どのデータセットから、どの条件で、誰が合成するかという手続きとガバナンスによってその意味を規定される。本作は、生成AIがグローバル標準の名のもとに地域的・文化的記憶を忘却してしまう傾向に抗し、ヴァナキュラーな公共空間や身体作法を再帰的に生成することで、「どのような記憶が未来に残されるべきか」を問う文化的批評を実践している。さらに重要なのは、この「合成のプロトコル」が単一の集合へと回収されるのではなく、文化ごとの差異や逸脱を抱えたまま、アーカイブされ別様に合成される権利が制度化されなければならない、という倫理的課題をも提示している点にある。
またフェミニズムから読み解くならば、それはアジアにおけるテクノロジーとジェンダーの新しい交差点を示している。1980年代以降の「機械と女性の連帯」は、西洋的な二項対立を超える思考として出発したが、アジアではそれが、装飾・霊性・身体的記憶といったローカルな美学と接合することで新たな展開を遂げた。たとえば、韓国のイ・ブルが冷戦後の国家権力と女性の身体表象を批判的に造形化したように、草野もまた、AIと戦後日本の集団的記憶のデータを用いながら、脱近代的に再構築している。ここまで見てきたように、《EGO In the Shell》は、伝統的なアジアの造形論・身体観を継承しつつ、90年代日本SFアニメと現代美術が切り開いた記憶論やジェンダーの問題を、AI時代における新しい倫理的地平へと架橋する試みと言える。繰り返すなら、過去や歴史は、もはや事実の保管庫ではなく、合成されるプロトコルの中で常に更新され、匿名と固有名がせめぎ合う境界として理解される。草野の作品は、この合成記憶時代の芸術とも呼ぶべき転換の最前線に立つ芸術実践であり、同時代の哲学的・美学的課題を先取りする預言として、我々の前に開かれている。
タブ 1
Simulacra in the Social Interstice:AI時代の存在論的探求としての草野絵美
序論——存在しない記憶の懐かしさと不気味さ
草野絵美の作品において、観客がふとした瞬間に出会うのは「存在しない記憶」である。完全な虚構であると理解しながらも、それらは深層意識に忍び込み、抗いがたい既視感を呼び覚ます。作家の幼少期の私的な記録や、戦後日本のありふれた日常の断片が、AIの介入を受けて未来的テクノロジーと交錯する。その交点において、奇妙な懐かしさと違和感が渦を巻き、私たちのアイデンティティの基盤そのものを揺るがし始める。
この系譜は、20世紀後半の芸術実践に遡ることができる。1970年代、シンディ・シャーマンは写真を通じて、メディアに流通する女性像を演じ、アイデンティティの虚構性を暴き出した [Krauss, 1985]。写真は「主体の真の姿」を捉えるものではなく、むしろ反復とずれによって、主体が常に社会的な演技・操作から生成されることを可視化する装置だった。草野の実践もこの系譜に連なるが、彼女の眼差しが射抜くのは「社会的な役柄」ではなく「生成された記憶」である。そこに可視化されるのは、主体の虚構性というより、主体を支える基盤としての「記憶」そのものの脆弱性である。
この問題意識には、戦後日本に固有の文化的厚みが宿る。映画監督の押井守や漫画家の士郎正宗らによって展開され、世界的影響を与えたSF映画『攻殻機動隊』は「脳も身体も機械化されたとき、なお自我は存続しうるのか」という逆説を提示した。草野はこの問いを現代的に継承しつつ、AIが生成する「記憶」の次元へと転位させる。もし記憶そのものがAIによって生成されるならば、私たちはなお「過去」や「歴史」を生きる存在と呼べるのだろうか。問いは美学的実験を超え、政治的・認識論的・倫理的次元において根源的含意を帯びる。
ここで問われるのは、記憶と主体の関係性そのものの再定義である。西洋近代において記憶は、個人の同一性を保証する基盤とされた。しかしAIが生み出す「存在しない過去や歴史」は、その基盤を足下から掘り崩す。「私」はもはや記憶の所有者ではなく、生成され続ける擬似記憶の回路に巻き込まれる存在として立ち現れる。草野の作品は、この転換を可視化する批評的装置として機能する。
草野絵美の実践は、AIが全面化する21世紀において、記憶と主体をめぐる新しい認識論的・倫理的問題を切り開いている。本論では、展示の設計から社会的背景、文化的基盤に至るまで、段階的にその意義を明らかにしていく。第1章ではアジアの儀礼的空間や宗教的図像から作品の独自性を分析し、第2章ではフェミニズムの視点からテクノロジーとジェンダーの問題を読み解く。第3章では香港の哲学者ユク・ホイの理論を援用して、西洋的記憶モデルへのオルタナティブとして草野の実践を位置づける。第4章では日本的アニメ文化やポストヒューマン論との連関を探り、結論として記憶と主体の倫理的・政治的含意を総括することで、草野の作品を現代美術史における批評的実践として評価する。
Ⅰ. 複製される顔、分裂する身体——アジア的公共空間と宗教芸術の系譜
草野絵美の《EGO In the Shell》において、ブラウン管やスクリーンに立ち上がるのは、作家の私的写真群をAIが再構築した微細な断片である。そこに繰り返し召喚されるのは、アジアに固有の儀礼的・日常的公共空間——結婚式場の定型化された所作、葬儀の静謐と行列、通勤電車の整列と無言の秩序——である。これらは戦後日本の生活世界に深く根差した、規律化された身体作法の堆積であり、同時に文化的基盤そのものをつくり上げてきた。
草野がこの「ヴァナキュラーな記憶」を反復して呼び戻すのは偶然ではない。生成AIの多くは欧米中心のデータセットに傾斜し、標準化されたグローバルな光景を普遍的なものとして再演することで、地域的な手触りや具体的な生活感覚を捨象してしまう。草野は、まさにその忘却の縁に批評の起点を見いだす。欧米型AIが取りこぼす反近代的で土着的な残響を、あえて生成にかけ直し、観客へと投げ返すのである。
ここで浮かび上がるのは、日本/アジアという文化的基盤が生成する、欧米の個人主義とは相異なる主体の姿である。日本では規律化された所作の反復を通じて、個は「空気を読む」感受性と集団への順応の美学のうちに組み込まれる。私という主体は、孤立した実体としてではなく、他者や環境との相互依存のなかで、その都度立ち現れる生成的な関係の結節点として理解される——これは仏教の「縁起」の思想と重なり、主体を「一貫性を保持するもの」ではなく「即時的に生成されるもの」として捉え直す視座を開く。
この「即時生成される主体」のイメージは、アジアの宗教的身体表象に通底する。たとえば、14世紀のチベット仏教学匠ツォンカパの系譜に見られる身体観では、身体は物理的に固定された実体というより環境に霧のように微満する気のようなものとして考えた。宝誌和尚立像(8世紀/京都国立博物館蔵)に特徴的な、ひとつの顔が左右に割れて別の顔が下から現れる彫刻の形式は、自己の統一的輪郭を越えて別の自己が分裂・複製・重層化していくアジア的な精神の運動を示す。伝統的な仏教彫刻の阿修羅像や千手観音像における多顔多手の身体観もまた、内的葛藤や複数の視線の同居を可視化し、主体の一元性をほどき、ひとりの存在に潜在する多重性を浮上させてきた。
草野の本シリーズに反復して現れる「複製された顔」や「分裂する身体」は、単なる未来派的サイボーグ像ではなく、このアジア的身体論の現代的変奏である。(この図像学の系譜は、韓国のイ・ブルや香港のルー・ヤンのサイボーグ表象とも共有するものである。)すなわち、《EGO In the Shell》は、アジアの伝統的な宗教的身体観を受け継ぎつつ、それを『攻殻機動隊』が描いた「ネットワーク的主体」のビジョンへと拡張する。複製顔と分裂身体の反復は、アジア的文化が古来描いてきた「多面性」「分裂性」「関係性としての身体」を今日の技術環境において再演し、AIとバイオテクノロジーの果てに立ち上がるであろう機械と主体の境界が融けた未来の自己像を予告している。
Ⅱ. アジアのテクノフェミニズム——装飾としての顔・皮膚・サイボーグ
草野絵美の作品を、AIやサイボーグ的身体という文脈において読むことは、テクノロジーとジェンダーの関係をアジアの視点から再考することと同義である。本節では、まず1980年代以降に展開されたサイバーフェミニズムの系譜を参照し、それをもとにアジアにおけるその発展として本作を論じる。とりわけ、アメリカの哲学者ダナ・ハラウェイによる「サイボーグ宣言」(1985)は、フェミニズムが「自然/文化」「身体/機械」「男/女」といった二項対立を超克するための思考装置として、サイボーグという比喩を導入した点で画期的であった。ハラウェイにとって、サイボーグとは、母を持たず、起源神話を拒む存在である。それは「生物学的に与えられた身体」ではなく、「社会的・技術的ネットワークの中で生成される身体」なのだ。この視点から見れば、草野がAIを通じて自己の顔や身体を別様に何度も生成し、再演する行為は、ハラウェイのいう「起源なき身体」の現代的再解釈といえる。AIがつくり出す彼女の顔は、生物学的身体ではなく、社会的・技術的コードによって書き換えられる「もうひとつの皮膚」であり、それは「私とは誰か」を問う存在論的な境界線を曖昧にしている。それは、生涯剥ぎ取れないアイデンティティの証明ではなく、生成されるたびに変化し他者との界面を調整する「共生の皮膚」であり、そこに新しい政治的能動性が宿る。
この「コードとしての身体」という視点は、イギリスの思想家サディ・プラント(Sadie Plant)による「Zeros + Ones: Digital Women and the New Technoculture 」(1997)においてさらに深化した。プラントは、コンピュータの起源をジャカード織機にまで遡らせ、女性の織り手たちがもたらした「織物=コード」という隠れた系譜を再評価した。彼女にとって、女性性とは「ネットワーク」「流動」「織り」の形でテクノロジーの基層に潜み続けてきたものであり、機織りとは、情報をコード化する技術的思考の原点だったと転倒させた。「織り」「刺繍」「縫製」「装飾」といったかつて女性の労働とされたものこそが情報技術の原型=コードの生成装置であり、コンピュータ・コードはもともと「女性的」であった。草野のセルフポートレートにおいて、複製される顔や光沢を放つ皮膚の質感、義肢の意匠やシルエットのパターンは、まさに「織物としての身体コード」の視覚化である。それは男性的なテクノロジーの言説の内部に「装飾(ornament)=女性的なコード」を再導入する行為として読むことができる。つまり、草野にとってAIとは、抑圧された女性的コードを奪還するための「織機」なのである。
こうしたサイバーフェミニズムの文脈において、パラグアイ系アメリカ人の芸術家フェイス・ワイルディング(Faith Wilding)は「Where is the Feminism in Cyberfeminism?」(2006)で、テクノロジーの過剰な楽観主義を批判し、「フェミニズムが求めるのは支配装置としてのテクノロジーの再プログラミング」と述べた。この視点から見れば、草野の実践は、AIを破壊するのではなく、AIの内部に個人的な「ノイズ」やアジアの非合理な「霊性」を導入することで、テクノロジーを再プログラムしている。それはオーストラリアの芸術家集団VNSマトリクス(VNS Matrix)が「Cyberfeminist Manifesto for the 21st Century」(1991)で掲げた、「私たちはサイバー空間のウイルスであり、機械に感染する女たちである」という戦略のアジア的変異種でもある。
黄色人種のジェンダーの視点から、草野のテクノフェミニズムにさらに一歩踏み込むならば、プリンストン大学教授アン・アンリン・チェンによる『装飾主義』(2019)の視点が必要となる。チェンがいうように、アジア女性の身体は欧米の近現代社会において「装飾」として存在を許容されてきた。すなわち、内面を欠いた外皮としての「見られる存在」として。だがチェンは、その「装飾性」を単なる抑圧ではなく、生存するための皮膚(skin of survival)として読み替えた。黄色人種の女性が着飾って見られることは、権力の眼差しを主体的に操作・制御して生き延びるための術であった。草野のAIセルフポートレートは、まさにこの「装飾の再武装化(re-armoring of ornament)」を実践する。彼女の顔はもはや近代的な美の規範に単純に従属しない。老い・義肢・分裂・分身といったモチーフは、「完璧な表面」への信仰を破壊し、テクノロジーによって機能拡張した第三の皮膚(third skin)を形成する。それぞれが「見られる身体」の制度を反転させ、見られることでしか生き延びられなかった存在が、見る側を撹乱する存在へと変容する。
草野の複製された顔や身体は、もはや「ひとつの私」ではない。それは、AIとともに生成され、分裂し、他者のデータと混じり合う「私たち」の相にある。また自らの顔や過去の私的な記憶、アジア的な価値観をAIに積極的に学習させることは、支配的な技術への従属ではなく、その構造そのものを感染させ、撹乱する批評的擬態(critical mimicry)である。このひとつでありながら多面的でもある身体は、アジアの伝統に偏在する半透明/曖昧性/不可視性の美学でありながら、哲学者ジュディス・バトラーのいう「反復の政治(politics of iteration)」をアルゴリズム時代に翻訳したものでもある。それは内面や深さに代わる、鏡のように反射する「奥行きをもたない深さ(depthless depth)」の美学であり、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ・フェミニズム」が提示した「接続の倫理(ethics of connection)」を超えて、「表面の倫理(ethics of surface)」——皮膚・装飾・複製というアジア的境界(interface)へと展開する。草野絵美において、顔や身体はもはや内面の表象ではなく、社会的・技術的ネットワークの権力を眼差し返すための鏡のような表面——テクノフェミニズムの政治的装飾として機能している。しかし、それはまた現実の日本社会がいまだ苛烈な男女格差の構造を温存していることを前提とした「見られることによって生き延びる」存在の最も静かで強靭な抵抗のかたちでもある。
Ⅲ. コスモテクニクスとして——東洋の技術哲学から読む
香港の思想家ユク・ホイ(Yuk Hui)は『The Question Concerning Technology in China』(2016)において、技術を単なる中立的な道具とみなす西洋近代の普遍主義を批判し、技術を「宇宙技芸的思考(cosmotechnics)」として捉え直す必要を説いた。すなわち、技術とは世界のどこでも同一のかたちを取る普遍的装置ではなく、文化的宇宙観と倫理観に根ざし、それぞれ異なる世界像を生成しうる営みである[Hui, 2016]。
この視座は、今日のAIやバイオテクノロジーがもたらす均質な未来像に亀裂を入れ、文化的文脈に即した多元的な「コスモテクニクス」の可能性を拓く鍵となる。草野絵美の実践は、まさにこの多元的技術観を芸術的に体現するものである。彼女にとってAIは、記憶をデータとして保存するための道具ではなく、関係そのものを生成し、変容させるための媒介体である。AIは記録を固定する媒体ではなく、常に生成しつづける関係性のリズムを可視化する装置として機能するのだ。言い換えれば、草野の試みとは「AIを普遍的な技術として輸入すること」ではなく、「AIをアジア的宇宙観の文脈に差し戻すこと」である。
この観点から注目すべきは、彼女の作品に通底する、テクノロジーの果てに到達する「無我」や「多重の自己」という主題である。ユクホイの議論を借りれば、これらは「個」が絶対的単位であるという西洋的前提を問い直す契機となる。主体とは、孤立した点ではなく、相互依存的な関係の網の目の中で生成される——草野の作品におけるAIの運動は、この生成的関係のプロセスを具体化する詩的回路として働いている。
《EGO In the Shell》が描き出すのは、記憶や身体の可塑性をめぐる新たな自己像だけではない。それは、ユクホイのいう「新しいコスモテクニクス」の芸術的実例であり、技術の普遍性を相対化し、アジアの文化的宇宙観に根ざした異なる未来像を提示する批評的実践である。草野のAIは、演算のなかに倫理を、合理的なアルゴリズムの流れにアジアの宗教に根ざした非合理な文化を呼び戻す。そこでは技術はもはや冷たい機構ではなく、宇宙と人間、記憶と身体、過去と未来を織り合わせる柔らかなジャガードの織物となる——草野のAI的実践は、まさにそのような「アジア的な関係性を宿す技術」を詩的に再構築する試みなのである。
Ⅳ. 「合成される記憶」の倫理——90年代日本SFアニメからの再読
日本の映画監督・押井守によるSF映画『攻殻機動隊』(1995)は、サイボーグ化した社会において、記憶がいかに可塑的なデータとして扱われるかを主題のひとつに据えた。草野のインスタレーションの着想源となった本映画の象徴的な挿話——通称「ゴミ収集車の男」のエピソード——では、男が架空の妻子の記憶を植え付けられ、行為の動機そのものを他者に書き換えられていたことを取り調べの中で知る。その場面によって、観客は「個人の人生」とは何か、「生きる」という選択の自由がいかに外部によって制御され得るのかという、冷ややかで深遠なテーゼに直面する。
『攻殻機動隊』の物語は「記憶=保存すべき所有物」という近代的前提を解体する。ここでは、記憶はもはや個人の安定した資産ではなく、「人形使い」と呼ばれる超AIの手によって、絶えず複製・改竄・合成される流動的な履歴へと変容する。終盤、主人公・草薙素子が「人形使い」との融合を選ぶ場面は、単なる同化ではない。そこでは相互の記憶が溶け合い、新たな集合的記憶の萌芽が始まる——「私」は、もはや記憶の所有者ではなく、記憶の合成を媒介そのものとして立ち現れる。
この倫理的転回は、草野絵美の《EGO In the Shell》の尋問のインスタレーションにも深く共鳴している。AIが記憶を生成する局面では、過去はもはや「真偽」を問う対象ではない。どのネットワークで、誰と、どのような条件で合成されたか——それこそが意味を決定する「プロトコルの問題」として立ち上がる。生成AIが扱う膨大なデータは、オリジナルを何度も複写し、他の情報と融合・改変したシミュラクラの集積である。そこでは「真実か否か」という基準は無効化され、代わって問われるのは、参照元・アルゴリズムの条件・改変の権限と責任である。草野は、この問題を可視化するために、自身のプライベートフォトをデータセットとして組み込み、AIが「本物らしさ」を模して記憶を融解させていく過程を観客の前に突き返す。
同時代の日本のSFアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)もまた、記憶と主体の在り方を根底から攪乱した。終盤、人間の身体はLCLと呼ばれる液体へと還元され、全人類がひとつの海に溶け合う総体化のヴィジョンが描かれる。ここでの記憶は、もはや個の所有物ではなく、相互に浸潤し、漂う集合的意識の海として提示される。このユートピア/ディストピア的構図は、AIが巨大な集合データから平均化された記憶像を生成する現代の情景と響き合う。個を溶かし、区別のないひとつの総体へと帰すことは孤独を癒すかもしれない。しかし同時に、それは個々をその人たらしめている差異——つまり傷や偏差——をノイズとして消し去る危険を孕む。『エヴァンゲリオン』の最終局面で主人公の碇シンジが「再個体化」を選び取る場面は、自己が他者と融合して消えてしまうことの魅力を認めつつも、あえて孤独と痛みを抱えたまま「私」として立つ決断の寓話である。
草野の作品も、この倫理的な緊張を体現する。AIが生み出す記憶は、総体化されたデータのうねりの中に溶け込み、誰のものでもない曖昧な記憶像として出現する。しかし、草野は忘却された極めて個人的な記録写真、日本的・アジア的ヴァナキュラーな儀礼や公共空間を召喚することで、均質化の潮流に抗い、再び「個」を部分的に浮上させる。彼女の「合成された個人的な記憶」は、単なる新しい図像の快楽ではない。それは、固有性を再び立ち上げる権利——つまり、誰がどのように記憶を構成し、未来へ残していくのかという制度設計の問題——を鋭く突きつけるものでもある。
ⅣーⅠ.《No Ghost Just a Shell》: 空虚の再文脈化
90年代日本SFアニメと並行して、現代美術の領域で攻殻機動隊から影響を受けてこの問題を可視化したのが、フランスのアーティスト、ピエール・ユイグとフィリップ・パレーノによる《No Ghost Just a Shell》(1999–2003)だった。彼らは、日本のアニメ会社から購入したキャラクター「Annlee」を複数のアーティストに開放し、虚構を消費するアニメ産業の構造、主体なきキャラクターの流通を可視化した。Annleeは唯一固有の物語を持たず、ただ「使われる器」として市場に存在していたが、その空虚さを逆手に取り、複数の作家が意味を付与することで、Annleeは時に現実の人間に等しい権利の一部を与えられるにまで至った。 ここで焦点化されるのは、(1)身体表象と物語の分離、(2)複数の作者のネットワークによる記憶の生成、(3)ひとつの像が複数の国や文化を横断しながら差異化していく過程である。現代のAIが学習するのもまた、多国籍的で断片化されたシミュラクラであり、生成される記憶像は参照先を欠いた曖昧な断片である点において、Annleeは、この状況を先取りしていた。
草野の作品は、この「空虚さ」を継承しつつも別様に展開している。しかし、その批評性の核心は、AIが「過剰に事実や記憶を改変し続ける」ことで生まれる主体の肥大化と同時に失われる実質性こそある。草野における「空虚さ」は、90年代以上に「現実と区別できない虚構」に囲まれた現代に普遍的な問題の写し鏡でもあるのだ。
結論——合成記憶時代の芸術
草野絵美の《EGO In the Shell》シリーズは、AI技術が「存在しない記憶」を生成する時代において、記憶・主体・歴史の意味を根底から問い直す実践である。彼女の作品は、単なる技術的な実験や未来的なヴィジョンの再演にとどまらず、文化的・哲学的基盤を組み替えつつ「合成される記憶」の倫理、その根幹にある問いに関連している。草野の作品が示すのは、AI時代において記憶や歴史の意味が「真正性」から「プロトコル性」へと移行するという根本的転換である。すなわち、記憶は、過去を忠実に保存するものではなく、どのデータセットから、どの条件で、誰が合成するかという手続きとガバナンスによってその意味を規定される。本作は、生成AIがグローバル標準の名のもとに地域的・文化的記憶を忘却してしまう傾向に抗し、ヴァナキュラーな公共空間や身体作法を再帰的に生成することで、「どのような記憶が未来に残されるべきか」を問う文化的批評を実践している。さらに重要なのは、この「合成のプロトコル」が単一の集合へと回収されるのではなく、文化ごとの差異や逸脱を抱えたまま、アーカイブされ別様に合成される権利が制度化されなければならない、という倫理的課題をも提示している点にある。
またフェミニズムから読み解くならば、それはアジアにおけるテクノロジーとジェンダーの新しい交差点を示している。1980年代以降の「機械と女性の連帯」は、西洋的な二項対立を超える思考として出発したが、アジアではそれが、装飾・霊性・身体的記憶といったローカルな美学と接合することで新たな展開を遂げた。たとえば、韓国のイ・ブルが冷戦後の国家権力と女性の身体表象を批判的に造形化したように、草野もまた、AIと戦後日本の集団的記憶のデータを用いながら、脱近代的に再構築している。ここまで見てきたように、《EGO In the Shell》は、伝統的なアジアの造形論・身体観を継承しつつ、90年代日本SFアニメと現代美術が切り開いた記憶論やジェンダーの問題を、AI時代における新しい倫理的地平へと架橋する試みと言える。繰り返すなら、過去や歴史は、もはや事実の保管庫ではなく、合成されるプロトコルの中で常に更新され、匿名と固有名がせめぎ合う境界として理解される。草野の作品は、この合成記憶時代の芸術とも呼ぶべき転換の最前線に立つ芸術実践であり、同時代の哲学的・美学的課題を先取りする預言として、我々の前に開かれている。
タブ 1
Simulacra in the Social Interstice:AI時代の存在論的探求としての草野絵美
序論——存在しない記憶の懐かしさと不気味さ
草野絵美の作品において、観客がふとした瞬間に出会うのは「存在しない記憶」である。完全な虚構であると理解しながらも、それらは深層意識に忍び込み、抗いがたい既視感を呼び覚ます。作家の幼少期の私的な記録や、戦後日本のありふれた日常の断片が、AIの介入を受けて未来的テクノロジーと交錯する。その交点において、奇妙な懐かしさと違和感が渦を巻き、私たちのアイデンティティの基盤そのものを揺るがし始める。
この系譜は、20世紀後半の芸術実践に遡ることができる。1970年代、シンディ・シャーマンは写真を通じて、メディアに流通する女性像を演じ、アイデンティティの虚構性を暴き出した [Krauss, 1985]。写真は「主体の真の姿」を捉えるものではなく、むしろ反復とずれによって、主体が常に社会的な演技・操作から生成されることを可視化する装置だった。草野の実践もこの系譜に連なるが、彼女の眼差しが射抜くのは「社会的な役柄」ではなく「生成された記憶」である。そこに可視化されるのは、主体の虚構性というより、主体を支える基盤としての「記憶」そのものの脆弱性である。
この問題意識には、戦後日本に固有の文化的厚みが宿る。映画監督の押井守や漫画家の士郎正宗らによって展開され、世界的影響を与えたSF映画『攻殻機動隊』は「脳も身体も機械化されたとき、なお自我は存続しうるのか」という逆説を提示した。草野はこの問いを現代的に継承しつつ、AIが生成する「記憶」の次元へと転位させる。もし記憶そのものがAIによって生成されるならば、私たちはなお「過去」や「歴史」を生きる存在と呼べるのだろうか。問いは美学的実験を超え、政治的・認識論的・倫理的次元において根源的含意を帯びる。
ここで問われるのは、記憶と主体の関係性そのものの再定義である。西洋近代において記憶は、個人の同一性を保証する基盤とされた。しかしAIが生み出す「存在しない過去や歴史」は、その基盤を足下から掘り崩す。「私」はもはや記憶の所有者ではなく、生成され続ける擬似記憶の回路に巻き込まれる存在として立ち現れる。草野の作品は、この転換を可視化する批評的装置として機能する。
草野絵美の実践は、AIが全面化する21世紀において、記憶と主体をめぐる新しい認識論的・倫理的問題を切り開いている。本論では、展示の設計から社会的背景、文化的基盤に至るまで、段階的にその意義を明らかにしていく。第1章ではアジアの儀礼的空間や宗教的図像から作品の独自性を分析し、第2章ではフェミニズムの視点からテクノロジーとジェンダーの問題を読み解く。第3章では香港の哲学者ユク・ホイの理論を援用して、西洋的記憶モデルへのオルタナティブとして草野の実践を位置づける。第4章では日本的アニメ文化やポストヒューマン論との連関を探り、結論として記憶と主体の倫理的・政治的含意を総括することで、草野の作品を現代美術史における批評的実践として評価する。
Ⅰ. 複製される顔、分裂する身体——アジア的公共空間と宗教芸術の系譜
草野絵美の《EGO In the Shell》において、ブラウン管やスクリーンに立ち上がるのは、作家の私的写真群をAIが再構築した微細な断片である。そこに繰り返し召喚されるのは、アジアに固有の儀礼的・日常的公共空間——結婚式場の定型化された所作、葬儀の静謐と行列、通勤電車の整列と無言の秩序——である。これらは戦後日本の生活世界に深く根差した、規律化された身体作法の堆積であり、同時に文化的基盤そのものをつくり上げてきた。
草野がこの「ヴァナキュラーな記憶」を反復して呼び戻すのは偶然ではない。生成AIの多くは欧米中心のデータセットに傾斜し、標準化されたグローバルな光景を普遍的なものとして再演することで、地域的な手触りや具体的な生活感覚を捨象してしまう。草野は、まさにその忘却の縁に批評の起点を見いだす。欧米型AIが取りこぼす反近代的で土着的な残響を、あえて生成にかけ直し、観客へと投げ返すのである。
ここで浮かび上がるのは、日本/アジアという文化的基盤が生成する、欧米の個人主義とは相異なる主体の姿である。日本では規律化された所作の反復を通じて、個は「空気を読む」感受性と集団への順応の美学のうちに組み込まれる。私という主体は、孤立した実体としてではなく、他者や環境との相互依存のなかで、その都度立ち現れる生成的な関係の結節点として理解される——これは仏教の「縁起」の思想と重なり、主体を「一貫性を保持するもの」ではなく「即時的に生成されるもの」として捉え直す視座を開く。
この「即時生成される主体」のイメージは、アジアの宗教的身体表象に通底する。たとえば、14世紀のチベット仏教学匠ツォンカパの系譜に見られる身体観では、身体は物理的に固定された実体というより環境に霧のように微満する気のようなものとして考えた。宝誌和尚立像(8世紀/京都国立博物館蔵)に特徴的な、ひとつの顔が左右に割れて別の顔が下から現れる彫刻の形式は、自己の統一的輪郭を越えて別の自己が分裂・複製・重層化していくアジア的な精神の運動を示す。伝統的な仏教彫刻の阿修羅像や千手観音像における多顔多手の身体観もまた、内的葛藤や複数の視線の同居を可視化し、主体の一元性をほどき、ひとりの存在に潜在する多重性を浮上させてきた。
草野の本シリーズに反復して現れる「複製された顔」や「分裂する身体」は、単なる未来派的サイボーグ像ではなく、このアジア的身体論の現代的変奏である。(この図像学の系譜は、韓国のイ・ブルや香港のルー・ヤンのサイボーグ表象とも共有するものである。)すなわち、《EGO In the Shell》は、アジアの伝統的な宗教的身体観を受け継ぎつつ、それを『攻殻機動隊』が描いた「ネットワーク的主体」のビジョンへと拡張する。複製顔と分裂身体の反復は、アジア的文化が古来描いてきた「多面性」「分裂性」「関係性としての身体」を今日の技術環境において再演し、AIとバイオテクノロジーの果てに立ち上がるであろう機械と主体の境界が融けた未来の自己像を予告している。
Ⅱ. アジアのテクノフェミニズム——装飾としての顔・皮膚・サイボーグ
草野絵美の作品を、AIやサイボーグ的身体という文脈において読むことは、テクノロジーとジェンダーの関係をアジアの視点から再考することと同義である。本節では、まず1980年代以降に展開されたサイバーフェミニズムの系譜を参照し、それをもとにアジアにおけるその発展として本作を論じる。とりわけ、アメリカの哲学者ダナ・ハラウェイによる「サイボーグ宣言」(1985)は、フェミニズムが「自然/文化」「身体/機械」「男/女」といった二項対立を超克するための思考装置として、サイボーグという比喩を導入した点で画期的であった。ハラウェイにとって、サイボーグとは、母を持たず、起源神話を拒む存在である。それは「生物学的に与えられた身体」ではなく、「社会的・技術的ネットワークの中で生成される身体」なのだ。この視点から見れば、草野がAIを通じて自己の顔や身体を別様に何度も生成し、再演する行為は、ハラウェイのいう「起源なき身体」の現代的再解釈といえる。AIがつくり出す彼女の顔は、生物学的身体ではなく、社会的・技術的コードによって書き換えられる「もうひとつの皮膚」であり、それは「私とは誰か」を問う存在論的な境界線を曖昧にしている。それは、生涯剥ぎ取れないアイデンティティの証明ではなく、生成されるたびに変化し他者との界面を調整する「共生の皮膚」であり、そこに新しい政治的能動性が宿る。
この「コードとしての身体」という視点は、イギリスの思想家サディ・プラント(Sadie Plant)による「Zeros + Ones: Digital Women and the New Technoculture 」(1997)においてさらに深化した。プラントは、コンピュータの起源をジャカード織機にまで遡らせ、女性の織り手たちがもたらした「織物=コード」という隠れた系譜を再評価した。彼女にとって、女性性とは「ネットワーク」「流動」「織り」の形でテクノロジーの基層に潜み続けてきたものであり、機織りとは、情報をコード化する技術的思考の原点だったと転倒させた。「織り」「刺繍」「縫製」「装飾」といったかつて女性の労働とされたものこそが情報技術の原型=コードの生成装置であり、コンピュータ・コードはもともと「女性的」であった。草野のセルフポートレートにおいて、複製される顔や光沢を放つ皮膚の質感、義肢の意匠やシルエットのパターンは、まさに「織物としての身体コード」の視覚化である。それは男性的なテクノロジーの言説の内部に「装飾(ornament)=女性的なコード」を再導入する行為として読むことができる。つまり、草野にとってAIとは、抑圧された女性的コードを奪還するための「織機」なのである。
こうしたサイバーフェミニズムの文脈において、パラグアイ系アメリカ人の芸術家フェイス・ワイルディング(Faith Wilding)は「Where is the Feminism in Cyberfeminism?」(2006)で、テクノロジーの過剰な楽観主義を批判し、「フェミニズムが求めるのは支配装置としてのテクノロジーの再プログラミング」と述べた。この視点から見れば、草野の実践は、AIを破壊するのではなく、AIの内部に個人的な「ノイズ」やアジアの非合理な「霊性」を導入することで、テクノロジーを再プログラムしている。それはオーストラリアの芸術家集団VNSマトリクス(VNS Matrix)が「Cyberfeminist Manifesto for the 21st Century」(1991)で掲げた、「私たちはサイバー空間のウイルスであり、機械に感染する女たちである」という戦略のアジア的変異種でもある。
黄色人種のジェンダーの視点から、草野のテクノフェミニズムにさらに一歩踏み込むならば、プリンストン大学教授アン・アンリン・チェンによる『装飾主義』(2019)の視点が必要となる。チェンがいうように、アジア女性の身体は欧米の近現代社会において「装飾」として存在を許容されてきた。すなわち、内面を欠いた外皮としての「見られる存在」として。だがチェンは、その「装飾性」を単なる抑圧ではなく、生存するための皮膚(skin of survival)として読み替えた。黄色人種の女性が着飾って見られることは、権力の眼差しを主体的に操作・制御して生き延びるための術であった。草野のAIセルフポートレートは、まさにこの「装飾の再武装化(re-armoring of ornament)」を実践する。彼女の顔はもはや近代的な美の規範に単純に従属しない。老い・義肢・分裂・分身といったモチーフは、「完璧な表面」への信仰を破壊し、テクノロジーによって機能拡張した第三の皮膚(third skin)を形成する。それぞれが「見られる身体」の制度を反転させ、見られることでしか生き延びられなかった存在が、見る側を撹乱する存在へと変容する。
草野の複製された顔や身体は、もはや「ひとつの私」ではない。それは、AIとともに生成され、分裂し、他者のデータと混じり合う「私たち」の相にある。また自らの顔や過去の私的な記憶、アジア的な価値観をAIに積極的に学習させることは、支配的な技術への従属ではなく、その構造そのものを感染させ、撹乱する批評的擬態(critical mimicry)である。このひとつでありながら多面的でもある身体は、アジアの伝統に偏在する半透明/曖昧性/不可視性の美学でありながら、哲学者ジュディス・バトラーのいう「反復の政治(politics of iteration)」をアルゴリズム時代に翻訳したものでもある。それは内面や深さに代わる、鏡のように反射する「奥行きをもたない深さ(depthless depth)」の美学であり、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ・フェミニズム」が提示した「接続の倫理(ethics of connection)」を超えて、「表面の倫理(ethics of surface)」——皮膚・装飾・複製というアジア的境界(interface)へと展開する。草野絵美において、顔や身体はもはや内面の表象ではなく、社会的・技術的ネットワークの権力を眼差し返すための鏡のような表面——テクノフェミニズムの政治的装飾として機能している。しかし、それはまた現実の日本社会がいまだ苛烈な男女格差の構造を温存していることを前提とした「見られることによって生き延びる」存在の最も静かで強靭な抵抗のかたちでもある。
Ⅲ. コスモテクニクスとして——東洋の技術哲学から読む
香港の思想家ユク・ホイ(Yuk Hui)は『The Question Concerning Technology in China』(2016)において、技術を単なる中立的な道具とみなす西洋近代の普遍主義を批判し、技術を「宇宙技芸的思考(cosmotechnics)」として捉え直す必要を説いた。すなわち、技術とは世界のどこでも同一のかたちを取る普遍的装置ではなく、文化的宇宙観と倫理観に根ざし、それぞれ異なる世界像を生成しうる営みである[Hui, 2016]。
この視座は、今日のAIやバイオテクノロジーがもたらす均質な未来像に亀裂を入れ、文化的文脈に即した多元的な「コスモテクニクス」の可能性を拓く鍵となる。草野絵美の実践は、まさにこの多元的技術観を芸術的に体現するものである。彼女にとってAIは、記憶をデータとして保存するための道具ではなく、関係そのものを生成し、変容させるための媒介体である。AIは記録を固定する媒体ではなく、常に生成しつづける関係性のリズムを可視化する装置として機能するのだ。言い換えれば、草野の試みとは「AIを普遍的な技術として輸入すること」ではなく、「AIをアジア的宇宙観の文脈に差し戻すこと」である。
この観点から注目すべきは、彼女の作品に通底する、テクノロジーの果てに到達する「無我」や「多重の自己」という主題である。ユクホイの議論を借りれば、これらは「個」が絶対的単位であるという西洋的前提を問い直す契機となる。主体とは、孤立した点ではなく、相互依存的な関係の網の目の中で生成される——草野の作品におけるAIの運動は、この生成的関係のプロセスを具体化する詩的回路として働いている。
《EGO In the Shell》が描き出すのは、記憶や身体の可塑性をめぐる新たな自己像だけではない。それは、ユクホイのいう「新しいコスモテクニクス」の芸術的実例であり、技術の普遍性を相対化し、アジアの文化的宇宙観に根ざした異なる未来像を提示する批評的実践である。草野のAIは、演算のなかに倫理を、合理的なアルゴリズムの流れにアジアの宗教に根ざした非合理な文化を呼び戻す。そこでは技術はもはや冷たい機構ではなく、宇宙と人間、記憶と身体、過去と未来を織り合わせる柔らかなジャガードの織物となる——草野のAI的実践は、まさにそのような「アジア的な関係性を宿す技術」を詩的に再構築する試みなのである。
Ⅳ. 「合成される記憶」の倫理——90年代日本SFアニメからの再読
日本の映画監督・押井守によるSF映画『攻殻機動隊』(1995)は、サイボーグ化した社会において、記憶がいかに可塑的なデータとして扱われるかを主題のひとつに据えた。草野のインスタレーションの着想源となった本映画の象徴的な挿話——通称「ゴミ収集車の男」のエピソード——では、男が架空の妻子の記憶を植え付けられ、行為の動機そのものを他者に書き換えられていたことを取り調べの中で知る。その場面によって、観客は「個人の人生」とは何か、「生きる」という選択の自由がいかに外部によって制御され得るのかという、冷ややかで深遠なテーゼに直面する。
『攻殻機動隊』の物語は「記憶=保存すべき所有物」という近代的前提を解体する。ここでは、記憶はもはや個人の安定した資産ではなく、「人形使い」と呼ばれる超AIの手によって、絶えず複製・改竄・合成される流動的な履歴へと変容する。終盤、主人公・草薙素子が「人形使い」との融合を選ぶ場面は、単なる同化ではない。そこでは相互の記憶が溶け合い、新たな集合的記憶の萌芽が始まる——「私」は、もはや記憶の所有者ではなく、記憶の合成を媒介そのものとして立ち現れる。
この倫理的転回は、草野絵美の《EGO In the Shell》の尋問のインスタレーションにも深く共鳴している。AIが記憶を生成する局面では、過去はもはや「真偽」を問う対象ではない。どのネットワークで、誰と、どのような条件で合成されたか——それこそが意味を決定する「プロトコルの問題」として立ち上がる。生成AIが扱う膨大なデータは、オリジナルを何度も複写し、他の情報と融合・改変したシミュラクラの集積である。そこでは「真実か否か」という基準は無効化され、代わって問われるのは、参照元・アルゴリズムの条件・改変の権限と責任である。草野は、この問題を可視化するために、自身のプライベートフォトをデータセットとして組み込み、AIが「本物らしさ」を模して記憶を融解させていく過程を観客の前に突き返す。
同時代の日本のSFアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)もまた、記憶と主体の在り方を根底から攪乱した。終盤、人間の身体はLCLと呼ばれる液体へと還元され、全人類がひとつの海に溶け合う総体化のヴィジョンが描かれる。ここでの記憶は、もはや個の所有物ではなく、相互に浸潤し、漂う集合的意識の海として提示される。このユートピア/ディストピア的構図は、AIが巨大な集合データから平均化された記憶像を生成する現代の情景と響き合う。個を溶かし、区別のないひとつの総体へと帰すことは孤独を癒すかもしれない。しかし同時に、それは個々をその人たらしめている差異——つまり傷や偏差——をノイズとして消し去る危険を孕む。『エヴァンゲリオン』の最終局面で主人公の碇シンジが「再個体化」を選び取る場面は、自己が他者と融合して消えてしまうことの魅力を認めつつも、あえて孤独と痛みを抱えたまま「私」として立つ決断の寓話である。
草野の作品も、この倫理的な緊張を体現する。AIが生み出す記憶は、総体化されたデータのうねりの中に溶け込み、誰のものでもない曖昧な記憶像として出現する。しかし、草野は忘却された極めて個人的な記録写真、日本的・アジア的ヴァナキュラーな儀礼や公共空間を召喚することで、均質化の潮流に抗い、再び「個」を部分的に浮上させる。彼女の「合成された個人的な記憶」は、単なる新しい図像の快楽ではない。それは、固有性を再び立ち上げる権利——つまり、誰がどのように記憶を構成し、未来へ残していくのかという制度設計の問題——を鋭く突きつけるものでもある。
ⅣーⅠ.《No Ghost Just a Shell》: 空虚の再文脈化
90年代日本SFアニメと並行して、現代美術の領域で攻殻機動隊から影響を受けてこの問題を可視化したのが、フランスのアーティスト、ピエール・ユイグとフィリップ・パレーノによる《No Ghost Just a Shell》(1999–2003)だった。彼らは、日本のアニメ会社から購入したキャラクター「Annlee」を複数のアーティストに開放し、虚構を消費するアニメ産業の構造、主体なきキャラクターの流通を可視化した。Annleeは唯一固有の物語を持たず、ただ「使われる器」として市場に存在していたが、その空虚さを逆手に取り、複数の作家が意味を付与することで、Annleeは時に現実の人間に等しい権利の一部を与えられるにまで至った。 ここで焦点化されるのは、(1)身体表象と物語の分離、(2)複数の作者のネットワークによる記憶の生成、(3)ひとつの像が複数の国や文化を横断しながら差異化していく過程である。現代のAIが学習するのもまた、多国籍的で断片化されたシミュラクラであり、生成される記憶像は参照先を欠いた曖昧な断片である点において、Annleeは、この状況を先取りしていた。
草野の作品は、この「空虚さ」を継承しつつも別様に展開している。しかし、その批評性の核心は、AIが「過剰に事実や記憶を改変し続ける」ことで生まれる主体の肥大化と同時に失われる実質性こそある。草野における「空虚さ」は、90年代以上に「現実と区別できない虚構」に囲まれた現代に普遍的な問題の写し鏡でもあるのだ。
結論——合成記憶時代の芸術
草野絵美の《EGO In the Shell》シリーズは、AI技術が「存在しない記憶」を生成する時代において、記憶・主体・歴史の意味を根底から問い直す実践である。彼女の作品は、単なる技術的な実験や未来的なヴィジョンの再演にとどまらず、文化的・哲学的基盤を組み替えつつ「合成される記憶」の倫理、その根幹にある問いに関連している。草野の作品が示すのは、AI時代において記憶や歴史の意味が「真正性」から「プロトコル性」へと移行するという根本的転換である。すなわち、記憶は、過去を忠実に保存するものではなく、どのデータセットから、どの条件で、誰が合成するかという手続きとガバナンスによってその意味を規定される。本作は、生成AIがグローバル標準の名のもとに地域的・文化的記憶を忘却してしまう傾向に抗し、ヴァナキュラーな公共空間や身体作法を再帰的に生成することで、「どのような記憶が未来に残されるべきか」を問う文化的批評を実践している。さらに重要なのは、この「合成のプロトコル」が単一の集合へと回収されるのではなく、文化ごとの差異や逸脱を抱えたまま、アーカイブされ別様に合成される権利が制度化されなければならない、という倫理的課題をも提示している点にある。
またフェミニズムから読み解くならば、それはアジアにおけるテクノロジーとジェンダーの新しい交差点を示している。1980年代以降の「機械と女性の連帯」は、西洋的な二項対立を超える思考として出発したが、アジアではそれが、装飾・霊性・身体的記憶といったローカルな美学と接合することで新たな展開を遂げた。たとえば、韓国のイ・ブルが冷戦後の国家権力と女性の身体表象を批判的に造形化したように、草野もまた、AIと戦後日本の集団的記憶のデータを用いながら、脱近代的に再構築している。ここまで見てきたように、《EGO In the Shell》は、伝統的なアジアの造形論・身体観を継承しつつ、90年代日本SFアニメと現代美術が切り開いた記憶論やジェンダーの問題を、AI時代における新しい倫理的地平へと架橋する試みと言える。繰り返すなら、過去や歴史は、もはや事実の保管庫ではなく、合成されるプロトコルの中で常に更新され、匿名と固有名がせめぎ合う境界として理解される。草野の作品は、この合成記憶時代の芸術とも呼ぶべき転換の最前線に立つ芸術実践であり、同時代の哲学的・美学的課題を先取りする預言として、我々の前に開かれている。